『プリミティブ・パペット・ショー(素朴なる人形劇)』。そこで彼は、従来の人形劇におけるある通念に批判を向けた。
彼が用いた等身大でぎこちなく動く木製の人形は、却ってその大きさがゆえに否が応にもそれが人形であることを意識させる。そしてフット自身も唯一の「生身の役者」として劇中内外を行き来し登場人物に突っ込みを入れる役所を演じた事で、その虚構性はより補強される。
つまり彼は、従来最重要視されてきた「違和感の排除」という項目にあえて逆行したのだ。人形の「生きている/いない」という境界線を包み隠さず明確に曝け出す事で、逆に人形というモノ本来のリアリティを表現しようとしたのである。
彼のそうした表現意図は、エピローグに至って特に端的に表される。なんと劇中に登場した人形達が生きた俳優に連行され、演目の内容を問われて裁判に掛けられるのだ。
これは当時施行されていた演劇検閲法に対する非常に露骨なメタ表現なのだが、結局、人形達は人間ではないからとして無罪を言い渡される。では生きた人間であるフットは?左足を欠き義足であった彼は、「人間でも人形でもない者」として判決不可能であるという落ちが付いたのであった。
人形と同じように当時の哲学によって人間も「違和感の無い純粋な心身」が尊ばれていた時代、これは彼なりの自虐を用いた諧謔であり、どこまでが自分の身体、自分自身と言えるのかという切実なアイデンティティへの問い掛けでもあった。
ぼくの考えたサーヴァント4
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